歎異抄


親鸞の名著だが、先日の日記で「絶対他力」なんて書いたものだから、再読してみた。

「他力本願」「絶対他力」はどちらも、彼の思想に基づく浄土真宗の概念だが、一番最初にこの本で印象付けられているのは、(たぶん、中高の社会で習ったであろう)悪人正機説だろう。


昔は、なんて変なことを言うのだろうと、顔をしかめたものだが、今はかえって納得できる。

彼の主張はこうだ。「善人(ひとかどの身分のある人、生活に困らない人)であってすら往生をとげるのだ、ましてや悪人(身分の無い生活の卑しい人、その結果悪事に手を染めざるを得無い底辺の人)が極楽往生出来ないことなどあろうか?」と。

前提として、阿弥陀如来の本願に因らなければ、誰も往生できないとし、弥陀の本願には全ての人を救わなくしては阿弥陀は仏にならないと言うことが置かれ、自分自身が悪事しか出来ないと知っている者の方が「他力本願」の真理に近付けるのだと言うことなのだろう。


私たちクリスチャンにとって、この考えは非常に親しみやすい概念で構成されている。

  1. 人は必ず罪を犯す
  2. 末法無仏の世にあっては)弥陀の本願によらなくては救済はない
  3. ただ「南無阿弥陀仏」と唱える(=これを称して「念仏」と呼ぶ)だけで救われる

で、あっているかな?
聖書に当てるなら

  1. 罪の無い人は居ない(義人はいない、ひとりもいない)
  2. キリストの十字架による赦しにあって初めて赦される
  3. (キリストが罪を赦してくれた救い主だと)信じるだけで救われる(人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる)


実際、固有名詞を伏せてしまった上で歎異抄をクリスチャンに見せて「文語訳の聖書の一部だよ」と言ったら、しばらく(読み慣れない古文に頭を悩ませながら)パウロの名前を引きずり出すことだろう。(全体として、パウロ書簡に似ているののである、ただし、全体としてである)


似ていないところも当然それはそらなりにあるのだが、それは、また後日。


P.S.
解釈の間違いなどあれば、メールもしくはコメントでご指摘いただければ幸い