主日礼拝
聖餐式
キリストの十字架の出来事を忘れないように、十字架の前に主イエス様が「最後の晩餐」で弟子たちに伝えたメッセージの再確認でもある。パンとブドウ液(教派によってはぶどう酒)を別々に配餐することは、キリストの肉(≒パン)と血(≒ブドウ液)が別々のものに分けられた(≒死)を意味し、これが私たちのための贖い(買取の代金を支払うこと、弁済金?)を象徴するものだ。
礼拝メッセージ
礼拝は、創世記の32章13節から32節を取り扱い、「ヤコブの和解(2)」として末松牧師より学んだ。
創世記におけるイサク*1の双子の息子エサウ*2とヤコブ*3。長子であるエサウが慣習で言えば長子の権利(アブラハム契約による譲りの地の継承の権利、「カナンの地」の相続の権利を含む)はエサウのものであるが、ヤコブの姦計により、兄エサウ自身からその権利を、父イサクからその長子の権利の譲り渡しの祝福を受けたことで、兄の怒りを買い*4、叔父ラバンの下、ハランの地に身一つで逃げた。
約20年間の生活の中で、叔父ラバンとの関係も互いに騙しあうところのある中でのやり取りであったが、ヤコブは叔父ラバンの二人の娘を妻とし(他に、二人の側女が居る)、末子ベニヤニンを除く11人の子供を得、羊、ヤギ、らくだ、牛の群れに象徴される財産を大きく増やした。
しかし、神との契約にある「カナンの地」に戻ることを、主ご自身に告げられ、今、妻、側女、子、多くの奴隷、羊、ヤギ、らくだ、牛の群れと共にカナンの地に戻ろうとするが、そこにはかつて裏切りのために、ヤコブに殺意さえ抱いていたエサウが居るのである……
と言う辺りまでを下敷きとして、話は始まる(ごめんなさい、ここまで前置きなんです)
20年間放置してきた問題に、初めて向き合うヤコブ。
今まで、人を押しのけ、騙し、自己正当化しながら来たヤコブは、兄との関係においても。
- 長子の権利は当然自分の権利であると言う主張 → × (それですむなら、そもそも逃げていない)
- 物質的な代償(財産の供与による、和解) → × (必ずエサウが許してくれるとは限らない)
と言う不安の前に、初めて自分自身の問題に気付き、深く神の前に祈る。まだ自己中心とかつての神の契約にすがりつく不完全な祈りではあるが、しかし、今までとは違う形で神に向き合う。
兄に使いを出し、贈り物を出す用意があることを使者に告げさせたが、その使者が今度は、兄エサウが800人を引き連れて出迎えると言うことを持ち帰ってきたからだ。
ヤコブは群れを二つに分け、どちらかが襲撃されても必ず一つは生き残るようにし、兄エサウに向かって順に雌ヤギ200頭、雄ヤギ20頭、雌羊200頭、雄羊20頭、乳らくだ30頭とその子、雌牛40頭、追うし10頭、雌ロバ20頭、御ロバ10頭にそれぞれしもべをつけ、先に行かせ、群れと群れの間には十分な間を置かせて、しもべたちには、しもべであるヤコブから、主人のエサウへのプレゼントだと言えと言い聞かせて、順に宿営から送り出した。
そして、最後に一人残ったヤコブの前に、「ある人*5」が現れ、ヤコブと朝まで格闘をしたとある。
その人はヤコブに勝つことが出来なかったので、ヤコブのもののつがいを打ち、「私を去らせよ」と告げるが、「私はあなたを去らせません、私を祝福してくださらなければ」とヤコブが応える。
このあとのやり取りが、聖書にはさらっと書いてあるが、実は重要な箇所である。
その人は言った、「あなたの名はなんと言うのか。」かれは答えた。「ヤコブです。」
創世記32章27節 新改訳聖書第3版より
脚注に書いたが「ヤコブ」とは「押しのける者」という意味を持つ、ここでヤコブは単に名乗ったのではなく、自分がどういう存在であるか理解し、それを神に告白したと理解できる。
なぜなら、それに対するその人の応答がこうだからだ。
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル*6だ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
同 28節
と宣言され、祝福を与えられる。
自分自身の問題に気付き、さらけ出し、それが自分自身ではどうしようもない問題だと認め、その上で神の前に祈り、とりなしを求め、祝福を与えら得ることで、やっとエサウと向かい合うことが出来るようになったヤコブであるが、この姿は私たち自身とも重なるものである。
「自分は正しい」と言う立脚点に固執している限り、他者との「和解」は無い。
もちろん相手にも問題はあるだろうが、まず自分自身の問題、過ちを認めることで、初めて相手の問題にも触れることが出来るようになる。順番は逆ではない。(もっともその前に、神様の側からそう促されているわけではありますが……)
忘れないようにしたい。