サタデーユース

今日は、サタデーユース(中高生対象の集会)のある第三土曜日。メッセージの奉仕をしてきた。記録も兼ねてここに記す.

「タイトル:友としてのイエス

この曲を知っていますか?

(「星の世界」1番を独唱)
川路柳虹作詞・コンヴァース作曲「星の世界」

かがやく夜空の 星の光よ♪
*1

今も、この曲は音楽の教科書に載っていますか?
多分、どこかで聞いたことがあるんじゃないでしょうか?


私は高校がカトリックの学校でしたが、その時にこの曲に違う歌詞があるのを初めて知りました.

まずは一番だけ歌います。
(「慈しみ深き」一番を独唱)

賛美歌312番(新聖歌209番)「慈しみ深き」の歌詞

1. いつくしみ深き友なるイェスは
罪とが憂いをとり去りたもう
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ負える重荷を

2. いつくしみ深き友なるイェスは
われらの弱きを知りて憐れむ
悩み悲しみに沈める時も
祈りに応えて慰めたまわん

3. いつくしみ深き友なるイェスは
変わらぬ愛もて導きたもう
世の友われらを棄て去る時も
祈りに応えて労わりたまわん

作詞(英語): ジョセフ・スクライヴェン(1819 - 1886、著作権消滅)
訳詞(日本語): 讃美歌編集委員会
原詞: 「What a Friend We Have in Jesus」(1855年
作曲: チャールズ・コンヴァース(1832 - 1918、著作権消滅)

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 3.0 Unported ライセンスの下に提供されています。

[編集] これは賛美歌と言う曲集に入っていて、今この教会で使っている「新聖歌」にも収録されている曲です。

この歌詞を中心に少しイエス様について話してみたいと思います.

エスさまが、100%神様で、100%人間という方だということを先月までで話を聞いたと思いますが、今日のこの曲の歌詞は、イエスさまが、私たちに取ってどんな方かと言うことが書いてあります。

いま、新聖歌の歌詞を出していますが、このままだと古文みたいで意味が分かりにくいと思うので、少し噛み砕いてみました。

慈しみ深き.(私訳)

恵み深い、友イエスは、私たちの罪や咎、自分ではどうにもならないものごとを
拭い去ってくださいます。
だから、どうして、心の中に在る嘆きを全部イエス様に話して楽になろうとしないのですか?

恵み深い、友イエスは、私たちが弱いことを知っていて、憐れんでくださいます。
私たちが、悩みや悲しみで落ち込んでしまっているときも、
祈りに応えて慰めてくださるのです。

恵み深い、友イエスは、いつも変わらぬ愛を持って導いてくださいます。
誰も、私のことを理解してくれないように思えるとき、裏切られたときにも
エスさまはその祈りに応えて 労ってくださいます。


友として歩いてくださるイエス様は、私たち自身以上に私たちの事を知っていて、
招いてくださっています。

 当日レジュメより

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

マタイ11:28

いま、スクリーンに出ているこのみことば、どこかで見たことはないですか?

そう、教会の入り口の看板に書いてあることばです。

ここにあるとおり、私たちが抱えているどんな苦しみや悩みも、イエス様は聞いて受け止めてくれます。
どんなに、人との約束が守れなかったり、自分で決めたことが出来なかったりで、落ち込んだり、ワーッとふさいでしまってしまうことが、私たちにはあります。

他にも、抱えきれない責任や、重圧に潰されそうな時、やってきなさいと招いているのがこのみことばです.
エス様は、実は重荷をもう背負わなくて良いとは言っておられません。でも、一度降ろして、休ませて下さいます。


そんな風に語りかけてくださっているイエス様に、頼れば良いと分かっていてもなかなかそうできない私たちに、「どうして全部すっかりイエス様に打ち明けて楽になろうとしないのですか?」と語りかけて薦めているのが、この1番の歌詞です。


エス様はまた、わたしたちが、自分で決めた目標を守ることが出来なかったり、約束を守ったり出来ないのをも知っていて、可哀想だと思ってくれています.
でもそのことで、イエス様は、私たちを責めません。
このことは、聖書の中では例えばこう書かれています。

エスはオリーブ山に行かれた。

そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。

すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、

エスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。

モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

エスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」


ヨハネ8:1-11 新改訳聖書第3版より

罪を犯しても良いよとは、イエス様は間違っても言わないけど、でも、何か悪いところがあるかもうらダメだとは言わない方です。

まず受け止めて、私たちを、たとえ罪で糾弾されても仕方が無いような場合でも、まず寄り添って受け止めて下さいます。そして、罪の告白をす時、赦してくださり、その上で、これから先罪を犯さないようにと、はじめて言ってくださるのです.

この世にもう誰も味方がいないような辛い状態にあるときでさえ、イエス様は一緒にいて励ましてくれるのです。
エス様は、私たちを裏切りません。

それでは、終わりにみんなで慈しみ深きを歌いたいと思います.

(1番から3番まで斉唱)

*1:著作権継続中のため、うたいだしの引用に留めます