集中力の減退というもの/願い

ふとしたきっかけがあって、過去の自分の記事を読み直すことに.(アクセスログを見ていたら、下記の記事への検索からのアクセスがあったので)

d:id:kyrina:20070926:p1

これ、良く書き起こしたなぁ……
一杯メモを取ったんじゃござんせん、確かメモらしいメモは、4単語しか書いて無かったと記憶しています。

今なら、そんな無謀はしない、もう少しメモ取ります(もう少しかよ)……
まぁ、この講演自体が外部で行われたものだから無理だけど、うちの教会でやる分には録音回せるようにシステム組んだからね、今なら何回でも聴き直せる.

でも、ほんの6年前にはこれほどの集中力があったのだなぁと、少し愕然とした。
今誇っている知力も、身体能力も、やがて衰える。 これはだいぶ以前に学生時代の自分の文章をネットで検索して(笑)読んだときに、今(といっても、多分10年近く前))は
こんな論理展開を、組め無いと嘆いた覚えがある。

まぁ、失ったものの代わりに、得た経験も大きいのですが。

何が言いたいかというと、失われていくものに誇りをおいていては虚しくなるだけです。
ただ、無償の降り注ぐ愛に包まれていることを感謝しながら、その感謝を次に伝える。そのためにこそ、やがては失われる力が、今与えられているのだと、或いは
今学ばされているのだと、理解しつつ、前へ!! です。

そうしながら、与えられた奉仕はするのだけど、ただ一つ。もう一人で良いから、ともに悩める同労者が欲しい。

凄まじくぶっちゃけると、教会礼拝メッセージの録音・文字化・データベース化に興味/感心/使命を持つUnix使い or データベース使いの兄弟姉妹が近くに欲しい……
どっかに居ませんかねぇ?