再掲:紙オムツ害悪論

もう一つ、過去の記事を読み返していて思ったことを。

元記事はここに.

d:id:kyrina:20070921:p1

どこかで以前書いた気もするが、最近少し話題に取り上げたので少し書いてみる。

紙オムツをやり玉に上げて害悪とタイトルしてしまったが、別に紙オムツに限らない、要は、乳幼児から不快感を取り去ることが、コミュニケーション能力の発達を阻害しているのではないかという考察である。

人間、快・不快のいずれを好むかと言えば、快で間違いなかろう、つまり、不快の状態があれば、快に向かうように努めるのだ。

その結果、家電が家庭に溢れ、様々な不快から人は解放されてきたし、それ不快を避けること自体が悪だとは思わない。

しかし、乳幼児の場合、それが自力で果たせないので、泣くことによって訴えるわけだ。

それによって親は、我が子が空腹なのか、おむつが濡れているのか、暑いのか、判断して対処する。


そのうち、単に不快を表明するのではなく、何が不快なのかを具体的に表現したくなる。応答がまどろっこしいからだ。

おそらく、これがコミュニケーション能力を獲得する原動力のひとつ、それも大きな要因と思われる。

紙おむつは、この不快を大きく減少させ*1、結果として、コミュニケーション能力を育てる環境の阻害因子になってはいないだろうか?

もちろん、他にも要因は一杯あるし、育て方、しつけの仕方で挽回は利く(と思う)。

また、紙オムツが母親たちを多大な労苦から解放してきた功績は大きいのは事実だ。

ただ、その結果としてキレやすい子ども、困難に挑戦することをしない子ども、表面的な良い子と、他者理解の欠如した子どもを産みやすい環境にしてしまったことの遠因ではないかと考えるのは穿がち過ぎか。

子どもとは書いたが、もう親の世代がこれらによって育っている、無い状態を知らないのが当たり前ですらある。

こんななかで、何ができるかは、疑問だが、もしかして、現在「親」と言うものは、乳幼児に対して察しが良すぎ*2、先回りして色々なものを与え過ぎていないだろうか?

また、もう少し育った年代に対し、ものを与える以外の手段でコミュニケーションが取れなくなっていたりしないだろうか?


言葉をもっと交換しなければならないのだと思う、交換であって演説ではない。相手からも訊く、いやむしろ相手から訊く方が重要だ。


言葉をまだ持たない乳幼児は、訴える術をほとんど持たない。

言葉を覚えた、もう少し上の子どもたちは、正しく訴えることができず、溜め込んで弾けてしまう。

いや、あるいは大人ですら!


でも、そんな子ども*3は悲鳴を、泣き声をあげているのである、注意を払わない人には聞こえないけれども。


私には子どもはないけれど、いつか欲しいとは*4思っている。その時に、子どもの言葉がちゃんと聞ける、子どもに言葉をちゃんと教えられる親になりたいものである。

P.S.
諸般の都合で「紙オムツ」はカタカナ、それ以外はひらがなの「おむつ」に書き分けてみました。一緒だけどね ^^;

まぁ、紙オムツには縁がなかったとは言え、短いながらも子育てを経験し、今、教会で若い世代と付き合っていると、かつて書いたこの文章、そう外れてはいないんじゃないかなと思えてきた.

単なる子育ての問題じゃなくて、もっと大きなところで、政治や技術革新の話に至るまでそんな学習の失敗で、コミュニケーション不全に陥っているんじゃないかな?

もっと、本音を喋ろうよ.
もっと、相手の本音を探ろうよ.

私も空気が読めないと言われる方だから、得意じゃないんだけど、でも、努力して、歩み寄ろう?
まずは、その一歩からだよ.

*1:少なくともメーカーのCMはそう主張してますよね?

*2:そもそも不快感を発生する機会を奪っていると言っても良いかもしれない

*3:あるいは大人は

*4:子どもの前に妻だろうがと言う声には……お祈りくださいとしか返せません