かつて……

かつて、日本国と言う国があった。
理想的な国だった。

それはまず、その国名に現れている。
日の本の国。すなわち、太陽の下にある国。
あなんの難しい理想も、妄想もそこにはない、ただ、お日様が照る国、それだけの単純な名だ。

わざわざそんなことを言うのには、理由がある。フランス革命に始まり、多くの専横と戦ってきた人類は、自由平等博愛を愛し、様々な形で、国号にその理想を込めてきた。

曰く、人民、民主主義、自由、共和、社会主義……と。
国号に独裁国と謳う国は無かった。
ただ名前に無いだけであり実態とは異なったが。
実際、国号にこれらの理想を冠する数か多いほど実態から離れると言う説があった。歴史は証明しただろうか?読者の判断に委ねたい。

日本国には異称があった。
豊葦原の瑞穂の国
葦が一杯繁って、瑞々しい稲穂の実る国。
田んぼの国と言うわけだ。

なんとものどかな、しかし、豊かな異称であったことよ。少なくとも、日照りや干ばつとは無縁に感じられるではないか。例え現実にはその様な災禍があるとしても、やはり豊かな水と草木に根差す国土がこの国の原風景であろう。

そんな国に、アレが現れた。
アレと言っても、「臣(しん)安萬呂(やすまろ)、言(まお)す。」で始まる古事記で有名な、伝承の記憶の担い手、稗田阿礼(ひえだのあれ)のことではない。遠称の代名詞である「アレ」と呼んでいるにすぎない。

アレは、かつて居ないタイプの指導者だった。指導者と呼ぶのは適当ではないかもしれない。ただ、表現する用語が、日本語には無いのかもしれない。
アレは何も知らなかった。アレは美しいと常々言いながら、何が美しいのか知らなかった。
また、アレは必要以上に強い言葉を使いたがったが、その言葉の重みも知らなかった。

そのアレの力強い言葉と、自国を美しいと礼讃する態度に酔いしれた国民の一部は、叫んだ。

Heil Alle! (ハイル アレ!)と。

その叫びに、アレもまた酔いしれ、おだててくれる人に唆されて、次々に、何を望んでいるのかを自分自身でも判らないままに、作り上げていった。

豊葦原の瑞穂の国
この国には、豊かな水と豊かな稲穂があった。
アレは、何も理解せず、それらを焼き払い、稲の代わりに瘴気を、国土にばらまき、そこに夷狄(いてき)を呼び込んだ。

水源もこれらの夷狄に押さえられ、芦穂は枯れ、彼らはそこに瘴気をばら蒔きながら育つ稲に似た作物を稲の代わりに育てさせ、かつての国民は、水と食糧を得るために隷従させられた。

いまや、かつて日本国と呼ばれた国の脱け殻がそこにある。
この国に、日はもはや登らない。

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この作品はヒックションであり、
作中の登場人物、団体の構成員は、現実にはどうあれ、「ヒックション」とくしゃみをします。