心の闇と、渇き

一昨日の日記(id:kyrina:20061114:p1)にからむことだが、ここのところ、どうしようもない、強い圧迫感を感じ、追い詰められて、命を絶つ人が増えているようだ。

また、そうでなくとも、暗く広がった心の闇を持て余している人は多いはずだ。

教会に関わる立場で言えば、本来ならこういう時には伝道は進む筈である。人々は心のよりどころを欲し、かつ助けを求めているのだから。

にも関わらず、それほど目覚ましい伝道の実りが見えているわけではない。

昔(2〜30年前)なら、1000枚のトラクト(教会案内のパンフレット・ちらし)を配布したら一割近くの反応が見られたと言う。それが現在では1万枚配布して5、6人の反応があれば良い方だと言うのである、これは一体、どうしたことだろうか?


きっと、こういう事なのではないだろうか? 今、心に闇を抱えた人は、同時に強い猜疑心をも抱えているため、またその強さが昔の比ではないほど(個人がと言うのではなく一般にと言う意味に取って欲しいが)強いのだ。

それゆえ、そこに光があっても「どうせ、これも紛い物で、私の助けになどならない」と結論してしまう。

実際の紛い物もやはり光のふりをしているので、この結論はあながち間違った心構えでもない。十分に慎重になるのは正しい事である。



ただ、十分に吟味をしないというのはやはり不幸なことには違いない。どこかに寄り処を求めているのに、それがどこかを見付ける前に、そんなところは存在しないと言う結論を自分で決めつけてしまっているのだから。


耳を傾けてみて欲しい、目を開いて良く見て欲しい。まず疑いは持ったままで良いから、確かめてみて欲しい。「本物」が見付かるその時まで。


この時代の闇に、そう思う。