祈祷会

今日は、割とゆったりとした時間をもって祈祷会を持つことが出来た。感謝。

先日の日曜日のメッセージ(マタイ11:25〜30)から分かち合いをし、そのほかの課題を祈りあったのだが、先週のメッセージには、私たちクリスチャンはタクシードライバーに似ているという面白いたとえがあったので、ご紹介。

どういうことかというと、空車のタクシーには自由がある。どこに行くか、どう道を選ぶかもドライバーの自由である。
しかし、自由ではあっても、そのドライバーは、タクシー空しい、「空しい車」と看板出して走るくらい空しい。

お客が乗ったとたん、そのタクシーは自由を失う。
自分の意思ではなく、お客の指し示す方向に、目的に向かって走らなくてはならない。

勝手に、変な寄り道などした日にはどやされてしまう。

しかし、そのタクシーは、自由を失った代わりに、目的を持ち、恵みが確実に増し加えられていく(メーターのカウンターを見よ)。


最初聞いたときは、なんと言う突飛な譬えかと思ったが、なるほど確かにそうだ。
毎週日曜日に教会に行くと言うと、「まぁ、偉いわねぇ」と言われたりする。

何が偉いのかは判らないが(好き好んでいっているので)、まぁ、その時間が自由(なスケジュールを入れることが可能)な時間ではないのは確かだ。

凧揚げのタコはどうだろう?
糸があるから、自由に飛んでいくことは出来ない。

しかし、糸という緊張が無ければ、バランスを失い、たちまち地に堕ちてしまうだろう。

なるほど、確かに似ているなと、考えさせられた聖日と今日の祈祷会の時間であった。