礼拝
やや寝坊気味に礼拝へ。
礼拝前の練習時にバタバタしてしまい、練習できなかった (;_;)
プレイズ讃美→礼拝→聖歌隊奉仕→中高科スタッフミーティング→プレイズチーム練習
というコース。
礼拝メッセージ
礼拝でのメッセージは創世記の39章から「摂理に生きる」というタイトルでヨセフに関する物語の3回目。
エジプトの侍従長ポティファルの下に売られていったヨセフが、正しい基準と祝福で主人の信頼を勝ち取り、ついにはポティファルの財産その全てを預かるまでになったが、ポティファルの妻の誘惑を断ったために(おそらくは彼女の自尊心を傷つけたため)事実無根の濡れ衣を着せられ投獄されてしまう。
この流れの中で、多くのことを学ぶわけでありますが、(要らないところまで正直すぎるような少年だった)ヨセフが、正しい基準を持つ青年となって行く背後には、やはり神である主がともに居て、導いていることをその背後に読むわけです。
ただ、当事者はそのときにはその事が判らず、後になって振り返ってみて始めて判ることがしばしば。これらの事を実際の私たちに適用して話していただきました。感謝。
教会学校
分級では、今週は中学生分のメッセージ担当、今週のテーマはヨハネによる福音書の15章から『主はぶどうの木、私たちは枝』ということでの学び。
ぶどうの枝ほど、実をつけなければ役に立たないものは無いわけで、建材にもならず、彫刻をすることもおよそできず、せいぜいが焚き木として燃やすくらい。そのような枝に私たちは喩えられ、イエス様はぶどうの木であると聖書は教えます。
木につながっていれば、実を結び、ぶどうをたわわに実らせる枝も、木から切り離されてしまってはもはやなんの価値も見出されないような存在になってしまう、正しく繫がっていなさいというふうに、イエス様は教えます。
このことは、礼拝メッセージ自体ともリンクするような箇所でもあったので、少しは伝わったかな?
まだ時間配分がうまく作れない、でも、なんとか、キーになるところだけは行けたかな? 唸ります。
録音周り
うーん、まだ音が割れているなぁ。というか、先週よりも悪いかも。
ライン入力をもう少し録音レベルを落としてみよう。
ノイズを削って聞けるようにはなったものの……音質悪いなぁ。(ふぅ)
自宅とは条件違うから、なかなか最適なところに行かないなぁ。