主日礼拝

プレイズ讃美

今朝の奉仕はプレイズでの讃美から。
昨日の夕方(コンサートの後)で少し練習と打ち合わせをして、今朝本番。

礼拝

今日は、特別講師として、小さないのちを守る会(http://www.chiisana.org/)の水谷潔師。『神のかたちの回復=結婚の回復』というタイトルでメッセージを頂いた。

まず、『何故結婚しないのか?』という問いが、昨今では次第に聞かれなくなってくる、女性も『非婚』と言うのが時代の風潮的に『アリ』となってきており、下手にそんなことを聞くとセクハラと取られかねない。


しかし、そもそも、『何故結婚しないのか?』という問いの前に『何故結婚をするのか?』と言う問いはほとんど投げかけられることが無い、それは聖書を読むものとして、如何なものだろうか?

と言う問いかけが最初になされました。


創世記の2章15節〜25節が今回の箇所。

15節 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16節 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17節 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
18節 その後、 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
19節 神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
20節 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
21節 神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
23節 人は言った。/「これこそ、今や、私の骨からの骨、/私の肉からの肉。/これを女と名づけよう。/これは男から取られたのだから。」
24節 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
25節 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

創世記2章15節〜25節 新改訳聖書第3版より

とりわけ重要なのが24節とのことで、ここで結婚の全てを言い尽くしているのだとか。
すなわち、結婚とは

  1. 父母からの自立を果たした一人前の男女が
  2. 生活を共にして暮らす、ちなみに「助け手」とは英語では「helper」では無く「partner」が使われているので、隷従は意味しない
  3. 性生活を営む、『一心同体』となるとも言う。

と言うのが今日のポイント箇所。

結婚することで一人前になるのではなく、親のために結婚するのでもない、クリスチャンが聖書的に結婚を考えるのであれば、まず(経済的に、精神的に)親から自立した二人が、家庭を築くのであって、家庭を築いた結果親から自立したり、離れるのではないということ。


途中で、出てきた譬えを、いくつか。

  • 恋愛感情はチューインガム、結婚愛はスルメ

初めは味があって美味しいけど、そのうち味が無くなって、最後には吐き出してしまう。

一方結婚愛は、スルメと同じで噛めば噛むほど味がある(口に含むだけではダメです、口が臭くなるだけです、『味わう』には努力が必要です)

  • 恋愛はスポーツに喩えるとテニス、結婚愛は異種格闘技

恋愛は、互いに同じボールを打ち合いながらも『違うコート』すなわち、違う生活の場に立っているが、結婚は同じ『生活』と言う場所で、取っ組み合い、時には血を流し合いながらぶつかり合っている、しかも『互いにルールが違う』……らしい。

  • 恋愛感情は温度計、結婚愛はサーモスタット

恋愛感情だけで結婚するとえらいことになることの引き合いに出てきましたが、3年もすればさめてしまうのが恋愛感情、それでもある一定以上冷めさせない、下げさせない、「富めるときも貧しきときも、病める時もまた健やかなる時も」愛し続けるのが結婚愛。

  • 恋愛感情は温泉のように湧き出るもの、結婚愛は井戸水のように(努力して)汲み出すもの

自然にわきあがってくるのが恋愛感情(でも、医学的に見ても3年もすると、脳内ホルモンが分泌されなくなるんだって!!)、努力を必要とするのが、結婚愛


キーワード的に並べましたが、なるほどと思わされることが一杯、うーむ、奥が深い。


礼拝後に分かち合いの時をもてたので、その時に何人かで先生を囲んで色々と聞いていたのですが、そのときの最後に

水谷師:「今回のメッセージで、結婚が恐ろしくなったりしてしまったことは無いですか?」

と、みんなに聞きこの後に、私に振ってきたので
「恐れはありますが、まずは一歩足を踏み出すことでしょう」

とお答えしておきました。
踏み出す覚悟が無ければ d:id:kyrina:20071023:p1 みたいな用法はしていないわけで……
とはいえ、恐れは依然として存在するわけで。祈りつつ、一歩前へなのです。*1

聖歌隊讃美

昨日のコンサート(d:id:kyrina:20071027)で歌った曲の一曲「喜びもかなしみも」を讃美、さすがに昨日歌ったばかりだけあり、不安が無く、讃美に集中できた。ハレルヤ。

グループ会

聖書同盟刊行の「みことばの光」の今日の箇所から分かち合いを行った。今日の箇所は黙示録の16章1〜11節。
「海は死者の血のような血になった。」(黙示録16章3節)をどう解釈したらよいかとか、さまざまな議論から、第Iペテロの3章の箇所や、創世記の18章におけるアブラハムの祈りと、それでも行われた裁きと黙示録の箇所を平行させながらどう考えるかと、活発な意見交換が飛び交った。
良い学びのときである、ハレルヤ。

*1:とはいえ、覚悟はあっても一人じゃなんともならんので、やっぱりむぅと悩みます。いい男がいない?!そうなので、私もいい男になれるように努力せにゃぁね。