夢とはなにか

いつもの水谷潔師のブログにて、また気になった話題が取り上げられていたので私なりに考えてみたい。


「夢は必ずかなう」のうそ臭さと無責任さ | 命と性の日記〜日々是命、日々是性

『夢は必ずかなう』と言うのは耳に優しく、絶望状態から『一時的に』回避できる魅力がある気がする。


さて、何故、何に絶望したのだろう? それは思い通りになってくれない現実と言うものではないだろうか?

景気が回復したと言う割りには、良くならない家計、昇給より早く上がっていく税金や諸経費。うまく行かない人間関係、思い通りに行かない恋愛関係、ななか家に居ない旦那、言うことを聞いてくれない妻、小遣いを上げてくれない親、大人のような愚痴をこぼす子ども。無理難題を言う上司。親心のアドバイスを解さない部下。働かない大人。上がらない業績。あきっぽい消費者。信じられなくなった商品の表示。日本だけが不利になってしまった京都議定書。etc.etc.

いちいち挙げればきりがない。


これらの『現実を無視』して、ただ『夢は必ずかなう』と言うのは、確かにかなりの暴論。


にもかかわらず、夢は持ち続けるべきものでもある、例え叶わなかったとしてもだ。


それは何故か?


『ゴールの見えない走り方』をしないためである。


人間、期待していたモノが無いときに、相当なダメージを受けるものである。


分かりやすい例をあげてみよう。

大きな箱があるとする。『見るからに重そう』だ、しっかり支えて持ち上げるぞと気合いを入れて持ち上げようとしたとき、実は非常に軽かったらどうだろう?
若いうちは大したことがないかもしれないが、実はこれは腰を痛める典型例。

次に、階段をなにげなく降りていて、まだ階段があると思った先が、既に階段ではなく、同じ高さの床だったら?
ガクッと、膝に衝撃を感じるはずだ、これも体を痛めるもと。

これらはなぜ起こるのかというと惰性でゴールに向けての力配分をすることなく事を進めているからだ。


夢、それも目標としての夢がある場合は、非常に物事がクリアになる。多少の重圧、不都合、苦痛な出来事は、目的への通過点として折り込み済みの問題になるからだ。


関連して、先日、中高生のための集会(サマーキャンプの参加者が旧交を暖める場)があったが、その場で春日井聖書教会の沢口周一師がしてくれた喩え話(実話かも)をご紹介。

煉瓦を積む人

三人の人が暑い日差しの中で煉瓦を積む作業をしている。


質問者が訊ねていく。
『あなたは何をしているんですか?』

男A
「朝から晩までこうして煉瓦を積んでいるのさ、暑いし、煉瓦は重くて腕はパンパンだし、全くかなわんよ」

『あなたは、何をしているんですか?』

男B
「聞いてくれよ、こんな重労働なのに給料は安くってたまらんよ、世の中には涼しい部屋の中で、人の金でガッポリ稼いでいる奴も居るってのにさ、はぁ」
『あなたは、何をしているんですか?』

男C
「僕はね、今神殿を作っているんです、あっちにこんな風に神殿が出来て、人が一杯ここを訪れるようになるんです、素晴らしいでしょ? 僕はいま、その神殿の玄関に当たる部分の基礎を固める部分をいま、ひとつ、ひとつ、今大事に積んでいるところなんですよ!!」

この三人で一番充実しているのは誰だろうか?

この三人がしている作業は、外面的には『煉瓦を積む』という同じものだ、しかし、その内面は大きく違う、『面倒な作業』としか思わない人なとってと、『目標を見据えた上での作業』では、自ずからその仕事の扱い方も違えば、注意深さも違う、煉瓦にヒビが入っていたとき、前者はそのまま使ってしまうが、後者は取り除いて、新たに煉瓦を取りに走るのだ。*1


しかし、このような『目的』を伴わない単なる願望としての夢をイメージしてしまったときに『夢は必ずかなう』とやられると、これは全く意味が違うと言うことが分かるんじゃないだろうか?


安易な道は無いものよ……どんなことでもさ。

*1:この辺り、既に聞いた話ではなく、だいぶ膨らませてある