いのちは誰のものか? その2(続「中絶考」)

昨日(d:id:kyrina:20090226)に引き続いて、もう少し考えてみたい。

憲法における生存権であったり、母体保護法における人工中絶や不妊手術は、少なくとも日本と言う国が歴史を通して、弱者にも平等な権利が与えられるべきだと、階級社会を取り崩しながら学んできたこと、性別や障害、その出次によって差別するべきではないという結論の一つの結晶である。

実態との解離は部落差別などがまだ残るためもちろん完全ではないが、身分差別は無くなり、財産でもなく、選挙権は万民に与えられた。

雇用機会均等法により、就職の男女格差もなくなった。

らい予防法は廃止され、病気や障害による差別も除かれようとしている。


これらの歴史は、弱者が差別されなくなってきている歴史であるとも言える。


あと、もう少しなのだ。おそらく。


最も非力なもの、最も愛されるべきもの、そして未来を託すもの。その希望。


それが子ども、中でも胎児なのでは無いだろうか?


人工中絶とは、これを奪い去る行為に他ならない。
子どもの命は、控えめに言っても*1その子ども自身のものであり、親のものではない。


そういった視点が、中絶問題を語るときには、必要なのではないだろうか?

*1:本当は「神のもの」だと思っているが、ここでは論を省く