エホバの証人の訪問(その3)

前前回(d:id:kyrina:20090411)、前回(d:id:kyrina:20090418)の続き。


今まで土曜日に来ていたので、昨日来るかなと思っていたら、意表をついて、今日(日曜日)の夕方に来た。


今週はコロサイ一章の15-16節の箇所を中心に話を持ってきた。


キリストが神かそうではないかと言うところにどうしても焦点が当たるようだ。


新世界訳新改訳ではこの箇所は明確に違う訳となっている。


原文をもっとちゃんと読めるようにならなくては。


同じテキストを用いている場合は、その文章の解釈に始終することになるのかもしれないが、互いの訳文が異なるので、話は単純ではない。


今、大事なのは、攻撃をしないことだ。


私(たち)は私(たち)なりに解釈しており、彼らは彼らなりに理解しており、現在は相互に理解を引き出す時である。


自分たちの理解と異なるからと言う理由で拒否するのでは、言葉は届かない。


この場合、直接訪問に来る彼らと私とは、共有できる価値観と相容れない価値観を同時に保持している。


相容れない部分のみに目を留めて、対話を停止することは容易(たやす)い。


しかし、頑(かたく)ななのは現在それしか知らないからであって、自分で気付くなら、おそらく、回りを見回し、足跡を見直す契機もあるだろう。


私が信じる価値観のうち、極めて重要な一点*1は一致しているのだから*2


間に合うだろうか?


間に合いますように。

*1:神にはお名前がある

*2:その名前が何か、発音がどうか、どう扱うべきかという極めて重要な違いは、それでもこの一致点よりは重要ではない