エキュメニカル (メモ的に)

教会一致。
あこがれであると同時に危惧もする。

ただ、あくまでも教会一致であって、教理一致ではない。
また、無駄に加速する必要もまた無い。
2000年かかって壊れたものは、やはり修復にも同等かそれ以上の時が必要だろう。
それでも、キリストに在って一致できるなら、意義があり善いことであると考える。

相容れない教義は、どうしても残る。
そこに目をつぶって受け入れる事は、やはりするべきではない。
ただ、認める事は出来るのだ。
そこを履き違えると、エキュメニカルとは教会一致に名を借りた取り込み作業に堕してしまう。そういう議論もあるようだ、もしそのとおりなら哀しい。

福音書の中だけでさえ、各書の間のスタンスは違う。
聖書は違いの存在を否定しない。
画一的であることも求めていない。

手と足は違って構わない。耳と口も違っていて構わない。ただ、一つの身体なのだ。忘れてはいけない。
神はお一人であり、その意味において、教会もまた一つなのである。

全て、同じ神を信じるユダヤ教キリスト教イスラム教(以上成立順)の民はその違いを超えて一致できる時が、備えられている筈だと祈る。
信仰が、「宗教」に堕す時に対話は終わるのだ。矛を収めたままでおくには、あるいは、改めて矛を収めるには対話しかないのだ。

 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに付し、
 子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さい子どもがこれを追っていく。
 牝牛とくまとは共に草を食べ、その子らは共に伏し、
 獅子も牛のようにわらを食う。
 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
 私の聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。
 主を知る事が、
 海をおおう水のように、地を満たすからである。
    イザヤ書 11:6-9 (新改訳聖書 第2版より引用)

主の見せた幻である。
この幻は前述の三つの民に共通のはずである。
すぐではないのだろうが、互いを恐れなくても良い日が来る事を強く願い、祈る。