前夜式&葬儀

5月10日の深夜、教会の兄弟が一人天に帰られた。
いつかは来る避けられないことだと判っていながら、まだ先であるようにと、思いながら、お見舞いにも行きたいと思いながら、行けない自分が居た。

11日の昼休み、メールで帰天のことが知らされた。
婦人会の回覧では回ったらしいが、青年にはほとんど回っていない、あわててメーリングリストに情報を流す。


12日が前夜式(≒通夜……のようなものだと思ってください)、13日が告別式。
平日ではあるが、何故かその二日間、私は(予定も無しに)お休みだったのだ。
直前まではどう過ごすかをぼんやりと考えていたのだが、取り立てて「これをしなければ」ということも無く居たところに、この急報である。

「あぁ、この為に休日が備えられたのか」

と、妙に納得する。

前夜式では、故人が救われたときの思い出の歌である「ハレルヤコーラス」を聖歌隊で合唱して欲しいのだという。せめて精一杯歌おう。

11日、終業後、教会に駆けつける。故人とご親族が教会母子室にいらした。
亡くなった兄弟の表情は穏やかだった。
うっすらと目を開けて、子供を見つめているようだった。

12日、夕刻。駐車スペースがどう考えても足りないということだったので、乗り合わせて教会に向かう。凄まじい土砂降り。激しく降る雨に、不安になる。

私は最初に乗せてもらい、次々に拾っていくうちに、雨も小止みになった。
前夜式では、故人が現役であったことと、人柄もあって、大勢の人が詰め掛けた。建堂以来の最多人数であるという。
兄弟の好きな歌だ。また、今度は天で一緒に歌いましょう。

礼拝では、牧師のメッセージ(故人の洗礼のときの証しの原稿が中心)
のあと、故人の奥様の挨拶と証しがあった。
故人自身の言葉がそこから伝わるからだろうか? 参列した方にも言葉が染み透った様であった。

夜、某所チャットにて、前夜式と、葬儀の話題をした際に、
「清めの塩」
の話題になる。

死を避けず、忌むべきものと考えない私たちクリスチャンに「清めの塩」という概念はそぐわない。
他教徒の葬儀の際に、わざわざ口を突っ込む必要は無いのだろうが、信仰を同じくする私たちの兄弟の葬儀である。死は終わりではなく、むしろ凱旋である。
キリストともに在る者の死は、だから、始めから清い。
それゆえ、塩による清めは似つかわしくない。
# それに、そもそも、塩で清めるというのは、多分「神道」のもので、仏教から
# す遠いはずなのだ……

そんなことを、すこし考えつつ、

13日、9時集合。
駐車場の場所が確保できないため(やはり乗り合わせるべきだったか?)事情を理解して土地を貸していただいた場所に、教会員の車をパズルのように奥から詰め込む。(当然、途中では動かせない、最後まで居る予定の人間の分だけだ)
昨夜ほどではないが、それでも200名ほどが参列した模様。故人の人柄が偲ばれる。

出棺、賛美歌「神ともにいまして」
また会う日まで、神のまもり汝が身を離れざれ♪

二日間を通じて、兄弟がそこで微笑んでいるような気がした。
兄弟の証しが、もちいられて、光となって照らしますように。
                                 アーメン