信仰の難しさ

難しいと言っても、難解な神学が救いには必要……という訳では全く無く、教派間の無理解についての話である。

それぞれの教派の成立、背景により、今現在、それぞれの神学に食い違いがあること、これはある程度仕方の無いことである。

そう思えば、徒に他教派を非難できるものではないし、またそうすべきではない。(個々の教派の純粋性を保つためには理解できるが、そうであっても、先ず互いがどれだけ違うかよりも、どれだけ同じかに目を向けるべきだ)

実際のところ、「どれだけ違うか」に目を向けて話を始めると、許容などできないほどに見えた、非常に多くの差異が、「どれだけ同じか」に目を向けた時に見えてくる、圧倒的な同一性の前には、かすんで見えるほどだ。

「私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。」コリント人への手紙第1 6:5−8

この言葉に私達は耳を傾けるべきだ。
争っている暇は、既に無い。キリストならどうなさったかを考え続けなくてはならない。

教派間の差など、どれほど大きく見えても実は小さなものなのだ。主の十字架とその復活を仰ぎ見よう。すべてはそこから始まったのだ。