聖書に書かれていることとは その1

MIXI内での経緯(d:id:kyrina:20061205:p1)で、こんな、少し論文めいた事を書くことになってしまった。興味のない読者諸兄は流し読みにとどめていただいて構わない。
また、ここに記載した理由は、先方のコメント欄を私の文章で埋めることも気が引けるため、引用もとの文章として登録したものである。

また、これから書く内容は私の自由な意見に他ならず、うちの教会の代弁でも、ましてやキリスト教全体を代表できるものでも無いことを断っておく。
賛同は自由である。


まず、私の立場だが、聖書には誤りがないとする立場に立つ(福音派とも言う)ものだ。

その聖書の記述に関して疑念をもらい、創世記にある記述を例に引いて、「聖書は物理の論文ではないからその内容は、その書かれた背景、想定読者を念頭に置いて読まなくてはならない」と言ったのだがなかなか理解が得られない。

そこで、少し解説を書き直して出直すこととしよう。

創世記というメッセージはは紀元前数千年の時代のユダヤ人が第一の宛先だ(勿論二義的には、私たちを含めた全人類宛だと解してよい)。だから、まず彼等に理解されるように記述される必要がある、あった。

そんな記述の中にある必要があるのは

  • 世界そのものを創ったのは神である
  • 神は全能だが、抗う勢力が存在している
  • 人間は神に似せて(必ずしも見た目や肢体の形状を意味しない)神の意思に置いてデザインされた
  • 人間には地上の管理(支配とあるが誤解を招きそうなのであえて管理と書いた)が任されている
  • 人間はもともと神に従っていた存在だが、何らかの自己中心的な理由により、神との約束を破り、その庇護を離れた
  • 「罪」とは、神と共に歩まないことを示す概念である(もう少し細かいがおおらかに書くならばこうなる)
  • 神には固有名詞がある

というあたりか?
(雑に書いているとは、自分でも思う)

これらの事が想定読者に伝わらなくては記述された意味がないのは大前提である。*1


また、想定読者にとって理解の妨げにしかならない「余計なこと」は一切記載されない事になる。

そのため、バベル(≒混乱)の塔で全地に散らされた(創世記11:1〜9参照)人々のうち、ユダヤ人以外に関する詳細な記載は聖書中には存在しない。

時間に関する記述もそのように解し、現在の時間尺度でもって7日と言う期間が天地創造の所用期間だと思い込む必要はない。それは伝えたい本質ではないと理解されるからだ。
(もちろん、文字通りに解釈する意見も多いため、これは初めに書いた通り、私の意見であり、多くの意見の一つでしかないことは念を押しておく)

聖書の記載が、かなり喩え話で書かれていることは、広く同意を得られることである。

喩え話は、理解を助けるための表現であり、表現それ自体にこだわりすぎると、本質を見失うことは先にも書いたが今一度注意して貰うために再度記す。

例を幾つか示す。

ただし、はじめから喩え話だと断ってあるものは省く。

エス様の言葉に、次のような有名なものがある。

  • わたしはいのちのパンです(ヨハネ6:35)
  • わたしは世の光です(ヨハネ8:12)
  • わたしは羊の門です(ヨハネ10:7)
  • わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ10:6)
  • わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ15:5)

これらの言葉は明確にその伝えた内容を伝える真実だが、字句通りに読むべきだと言う主張は聞いたことがない。
(俗にクリスチャン用語言われるものの代表だろう)
字句通りに読むなら、イエス様が植物になったり、食物になったりと言うのを受け入れなくてはならないので。

言うまでもなく、これらは理解を呼び起こすためのイメージを明確にもった喩えである。

なお、今引用した箇所はすべて、εγω ειμι(エゴ エイミー)と言うギリシャ語で書き出されている。英語に単純に訳せば「I am」だ。ただ、ギリシャ語では本来ειμι(エイミー)と言ってしまえば、それを受ける一人称はεγω(エゴ)なため、省略されるのが普通である。(この辺はラテン語でも同じことだが)そのため、わざわざεγω(エゴ)とあるのは、通常の文章ではない。日本語にあえて訳すなら「わたしは〜である」でなく、「わたしこそが〜である」という意味になろう。非常に強い強調の文であり、言い切りだ。*2

このように、聖書は喩え、比喩を、そう断らずに記載するルールを持つ。
これは、ユダヤ人が共通の体験を持ち、苦難の時代を超えてきたからこそ、暗喩で十分に共通認識となりえる状況が前提として置かれた上で語られているというのも忘れてはならない。

今回は創世記とヨハネによる福音書から記述したが、「喩え話」が明示的であるか、暗示的であるかを問わず多用されているのは聖書の大きな特徴である。
聖書は実験レポートではない。それを読んで再現できる必要はないのだ。(というか、できない)

以上で、まずは、聖書が物理学論文ではなく、想定された読者の存在するメッセージだと言うことを理解いただきたい。

まとめ:
今回の記述では、「聖書が物理の論文ではなく、別の目的で、別の表現方法で書かれている」ことが理解してもらえれば十分である。

P.S.
この時期、クリスマス前で何かと忙しいため、多分、毎晩は書けない……

*1:この文章も、一義的な想定読者はたった一人である、もちろん、他の方も読んでもらって構わない。

*2:なお、旧約聖書において、神はご自身の名を 「わたしは、『わたしはある。』という者である。」出エジプト記3:14 と告げた、これこそがYHWHと記される、の名だが、εγω ειμιはそのギリシャ語形と言うことができる。