創造論? 進化論?

MIXI内にて、とあるマイミクさんの日記に付けたコメントだが、そのまま日の目を見ないのももったいないので、一部加工して転載する。

「喧嘩を売った」と彼の言う部分については適当に想像頂ければ幸い。

以下がその文章になる、半分寝言状態で書いたので、論旨が怪しいところもあるが、ご愛敬と言うことで。




キリスト教原理主義と言うと、右の頬を打たれたら左の頬を差し出すべき……と思ってはいるが、なかなか実践できない自分の罪深さを悔いて赦しを乞うというのが「キリスト教原理主義」の方向性だと思うので、どこに同意したものか、反論したものか悩んでしまう原理主義よりの人である。

氏は「キリスト教に喧嘩を売った」と音声にて私に言ったものだが、いかんせん、反論になる以前に争いが成立しない。私自身がよく言われるところの進化論、創造論はその双方とも完全ではない状態にあるドラフト状態の仮説だと考えているからだ。

本質的な、中心に見据えるべき聖書的内容は創造論に詳しいし、純粋に科学的考証と積み上げていく仮説として進化論は興味深い。

ただ、どちらも互いに反するのだと言う前提で議論をすることはためらわれる。

私は、聖書に誤りがあると言う認識はしていない。が、誤りのある読み方は多分にあるだろう。

カトリックが当時なんと言おうが、それを400年過ぎてから謝罪しようが、地球が太陽の周りを回っている事実は揺るがないのであり、ガリレオの発見で何か変わった訳でもなく、聖書が間違っていたわけでもない。

むしろ、聖書に書かれた事実の正しい読み方に気付いただけのことである。

そういう意味で、いずれ正しく擦り合わせができるまで、議論は重ねるべきだし、わずかな証拠から進化論が曲げられない事実であるかのように声高に叫ぶべきものでもない。

逆も同じである。

聖書が一義的には誰宛てに書かれたものかに目を向けなくてはいけない。

旧約聖書ヘブライ語(と、アラム語)で書かれている。

とすれば、まずはユダヤ人、それも紀元前数千年の彼等に宛てて書かれていると解するべきである。

聖書は科学者が書いた論文ではない、その字句を論文を読むような拾い方ではなく、何を伝えたいのかと言う主眼で取らなくては、かえって大きな誤解をうむことになる。

例えば、天地創造の一週間、太陽ができる前の『日』とは何かを考えるべきである。文字通りに読むなら、太陽がないのに『日』とある以上、ここでの『一日』とは、私たちのいわゆる一日とは違う「表現」なのだと気付かされる。最初の数行目に親切にも聖書はヒントを書いてくれているわけだ。

なので、地球が46億年の歴史を持っているという仮説を出しても別に反聖書的だと脅える必要はないわけだ。

基本は、だから反対のための反対は建設的ではないわけで、なにが言いたいかといえば、人間がアホなのは聖書読めばつくづく納得する単なる事実であって、

さらにいうなら、こんな長文を明かりもつけずに仰向けで、携帯からこんな時刻(夜中の3時半)に打っている私がアホなのは確定項だというわけで、つまり、もう眠いのでこの辺で打つのをやめて、続きがあるならまた次回ということで……むにゃむにゃなのである。

朝起きれますように。
アーメン



追記:無事に起きれたそうです。