ある日の行動と心理

最近、感じた事。


私は、とあるお店で、目の不自由な方が来られるのを見た。

お店は忙しく、店員の方はちょうど他のお客さんの応対に追われていた。

私は、特に急ぎでもなかったのでその方に何を探したいのかお訊きし、欲しいものを探すのを手伝うことが出来た。


現象面だけを捉えれば、そういうことであり、私はいい人に見える。


では、そのときの心理はどうだったか?
私は、白い杖を見たときに、息を殺して避けなかったか?
ジーッとその行動をみる目は、その方の目が開いていたなら、不快感を覚えなかったろうか?


最後にその方を案内するときに、意味のない優越感に捕われてはいなかったか?


なんと言うことだろう? 今はキリストを信じて救われた筈の私が、まだどうしようもない肉に振り回され、何が優れているわけでもないに優越感に浸ることさえできて、しかも周りにはそんな事は見えないので(たぶん)善人に見えてしまう。



善と言う性質は、たぶん、私に無いのだろう。


それがあるのは内住する聖霊のものであり、その聖霊の働きで、肉の私はその本来の性質である罪にいまなお支配されているとしても、聖霊の支配にもあるため、これに勝って善なる行動にすることが出来たのだろう。


とすれば、もっと内住する聖霊の働きに耳を傾け、従い続けることで、この内面のせめぎあいも、見つめられても恥とは思わずに済むものに変えられるのではないだろうか?


そんなことを、ふと思い出した朝。


キリストのようなものにはまだ遠いなぁ。

(もちろん、案内しないよりした方が良いのは疑いの余地はない、問題にしたのはその内面に限った話である。案内するべきではなかったと言う結論は始めから考慮の外なので、誤解無きよう 念のため)