価値観の共有

価値観、これほど厄介なものはないと思う。同じ音楽を聞いても人によって受け入れ方は違うし、同じ文章を読んでも、その人の背景が、違う理解をさせるだろう。

同じ国の中でさえ世代間での違いは今や凄まじいものがあるし、同世代の中でも、個人差が著しい。

そう考えると、なあなあで理解し得る間柄は、ひどく小さなグループに留まることになり、それより大きなグループの中で活動する際には、どうしても『言葉』を仲立ちにする他はない。

それも、互いの共通語を使うしかない、そんな言葉がないなら、創ってでもそうしないと、会話が、対話が成立しない。

エゴイズムでは、物事は悪化するだけだ。「国益」の名の下に他国に武力侵攻し、反抗すればならずもの国家呼ばわりと言うのは、最も効率的に対話を決裂させる手段であろうし、自国土以外での戦争がなくなると困る国の論理であろう。

刃を突き付けあって、相手が武装解除に応じないと言うその口で自分達の武装を先に解こうとはいわない、解かないまでも、相手の喉元から手を引けばまだしも、突き付けたまま優位に力でねじ伏せた形での交渉を『対話』と言う……

理想主義だ、お気楽だと言われようとも、それでも相手の言い分に耳を向けないことには何も始まらないだろう。

ふと、そんなことを考えながら、列車で中途半端に空いている座席を眺める。

『こちらどうぞ』
『ここ、いいですか?』

たったそれだけの会話ができないなら、訊く以前なのかなぁと、何とはなしに考えながら。