「異教としてのキリスト教」からの脱出

「異教としてのキリスト教」からの脱却

「異教としてのキリスト教」からの脱却

…… また載っていない。
仕方ない。

「異教としてのキリスト教」からの脱出

別のところへリンクを飛ばした。

この本は、キリスト教会が、十分な説明責任を果たしてきただろうか? 自分から「外国の宗教」であろうという反対の努力をして煙たがられてはしないかという、教会自体の姿勢を問う本になっている。

詳細は避けるが、外国人宣教師の目には奇異に見え、誤解の元であったかもしれないさまざまな日本の風習を、過剰に排除してきたことは無いだろうか? という問いを一つだけ紹介しておきたい。
「偶像礼拝」を避ける事は大事なことだが、偶像でもなんでもないものまで避けだすと、それはそれでおかしなことになる。第一、ヨーロッパ原産の異教的な習慣は色々と取り込まれてしまっているわけで、「異教的要素=排斥」と言う理屈で行けば、そっらも全て追い出す必要があることになる。
(よもや、クリスマスやイースターを教会暦から追い出すわけにはいくまい)

第一、キリスト教発祥のイスラエル地方は、「中東アジア」であり、ヨーロッパの宗教ではない。
「ヨーロッパで根付いた習慣に拘泥するあまり、地元をないがしろにする」のでは本末転倒である。

迎合しろというのではない、異教要素を取り込めというのでもない。
ただ、日本で布教するには、教理以外の部分で日本の習慣に合わせることが可能な部分は色々とあるだろうとこの本は指摘する。
考えてみたい。