命とは何か

また、水谷潔師のブログがきっかけの書き込み、内容は大分違うとは思いますが……
患者様は神様?お医者様も神様?(2) | 命と性の日記〜日々是命、日々是性
脳死と臓器移植との関係は援助交際の売り買いの立場と何が異なるのかという問掛けから始まる。
なるほど、提供する側と供給される側、間に仲介者が入るところまで、構造は似ている。
「誰にも迷惑をかけていないのだから良いじゃないか」という主張まで同じになる。


とはいえ、両者は大きく異なる点があり、金銭の授受、打算・妥協と純粋な善意であるという面で、根本的な違いを呈する。
ただし、当事者だけで閉じているならである。詳しくはリンク先参照のこと。


さて、私は私で考察を加えたい。感情論はなるたけ排して考えてみたい。


脳死が死であるという前提で、臓器移植の議論は構成され、説得され、臓器提供の善意の意思と、患者の需要が満たされたとき、臓器の摘出と移植がおこなわれる。

先に書いておくが、私はドナーカードを持っている、条件付きではあるが。

そのうえで、なお考える。
現在、人の意思を司る活動は、(主に)大脳皮質で行われると理解されている。

その意思、思考が魂や霊といった表現で言われる、その人の本質は(実際がどうかはさて置き)大脳皮質との関連が強そうに推定される。



しかし、脳死の基準はここではない。



脳幹と言う臓器がある。呼吸、心臓の脈動の制御等を行う、首のあたり、後頭部の下部に位置する臓器である。
大脳ではない。


ここが機能しなくなった時が脳死というのが、大枠の理解でよいだろう。*1


ということはである、個としての連続性が続いている最中(一方的に死に向かうことは、もはや確実であり、回復することはもはや永劫に無いとしても、未だ完全な意識の途絶に到らない状況で)に、脳死を宣告され、臓器を摘出される可能性。


現場の医師も常に揺れ動いていることだと思う。


社会的な意味では、その人は確に死を迎えており、対社会と言う意味では、脳死=個としての死で矛盾は見られない。


医学的な意味であれば、総体としての個体の死を考えるだろうし、この意味でも、不可逆な現象である脳死は、死と言えるだろう。


しかし、同時に、死んだ臓器は移植しても命を繋ぎ得ない。つまり、脳幹以外の臓器はまだ生きている。


「脳幹以外」には大脳も小脳も含まれるのだが、そのとき、「私」は何を感じ考えるのだろう?
痛みはあるだろうか?
もはや感覚器は、鈍いだろうが、死んではいない。



しかし同時に、それで救える命がある。


……


ここで、私は思考を停止する。


それが罪であるなら、私が背負った上で赦しを請おう。
知った顔で、他人に「それは死なのだから、気に病む必要はなく、安心してドナーカードを書け」などとは、間違っても言うまい。


矛盾を解決できないままの、暫定的な結論。


私の「提供を拒む臓器」には「肺、心臓」と記してある。
先の摘出のイメージの中で、私は耐えられなかったのである。


たぶん次も書くだろう、次の段階の覚悟か確信が無い間は。
また、ドナーカードを所持しないと言うことも、当分の間無さそうだ。


ドナーカードの署名欄には、1999年の私の誕生日の日付が記してある。

迷ったらなら、真似しない方をお勧めする。


我ながら、なんと矛盾に満ちた文章か!!

恥じつつ、この文章をここで終える。いつか、確信が与えられるよう、祈りつつ……

*1:私の認識に間違いがあるようなら、教えてください